M&Aインタビュー #6 東洋大学現代社会総合研究所 井上さま

2021-04-10

当社団では、研究会開催に加えて、メインの活動として、M&Aプロフェッショナル インタビューを行います。各界のM&Aプロフェッショナルにご協力いただき、M&Aに対する想いや、大事にしていることをお話していただきます。読者にとって、M&Aに関するご自身の考えや哲学を振り返るきっかけになれば幸いです。


第6回目は、2021年3月に、東洋大学現代社会総合研究所 客員研究員 井上さまにインタビューさせて頂きました。

東洋大学現代社会総合研究所
客員研究員
井上 邦夫さま

ご経歴:早稲田大学第一文学部卒業、米国コロンビア大学国際関係大学院修士(Master of International Affairs)、ジャパンタイムズ報道部記者、ロイター通信特派員(東京/ニューヨーク/ロンドン勤務)、共同通信海外部記者、東洋大学経営学部教授、社会情報大学院大学広報・情報研究科教授を経て、現職。


Q ジャーナリストを経験後、教授になられて、M&Aにおける企業文化を専門の1つにされていますが、どういったキャリアを歩まれてきたのでしょうか?

ジャーナリストになるきっかけはアメリカへの留学です。ずいぶん昔の話になりますが、私は1980年から2年間、アメリカの大学院に自費で留学しました。私の学生時代、日本では学生運動が激しく、多くの大学で授業がほとんど行われない状況でした。結果的に在学中は私もあまり勉強せず、そのためか、むしろ卒業して社会人になってから、本格的に勉強したいと思うようになりました。そこで、無謀にもアメリカへの留学を決意したのです。

留学の動機は海外への憧れです。世界を見たかった。そして、何よりアメリカに留学したかったのです。しかし、留学するには当然、相当なお金が必要です。同時に、希望する大学に合格するためには半端でない英語の勉強もしなければなりませんでした。そのため私はサラリーマンをやめてアルバイトをしながら、週に1,2回、当時、市ヶ谷にあった上智大学のインターナショナルカレッジに聴講生として通学し、英語で行われる科目を受講したりしました。このような生活を4年ほど続けました。お金を貯めるため、そしてアメリカの大学院に受かるために、それだけの時間が必要だったのです。

でも、その間、不安でいっぱいでした。親はもちろん心配します。特に父親は大変心配して、私の留学にはあまり賛成ではありませんでした。それは親としては当然だと思います。しかし、私はそのとき決めていました。何か目標を立てたなら、そして、それを成し遂げたいなら、それだけに集中しようと。留学できるのだろうか、留学できたとしても、帰国したらちゃんと就職できるのだろうか。考えれば考えるほど、不安だらけだったので、それらの雑念を払うように、目の前のやるべきことに集中しました。そして、何とか留学を実現することができました。

私が留学先に選んだのは、ニューヨーク市にあるコロンビア大学のSchool of International Affairsという国際関係学を学ぶ大学院です。ここには、国際的な分野で仕事をしたいと希望する学生がアメリカおよび世界各国から集まっており、大変刺激的でした。学者になるための大学院ではないプロフェッショナルスクールで、MBAのような2年制のマスタープログラムです。同級生と話をしていると、やはり、国連やIMFなどの国際機関で働くことを目指す人が多い一方、ジャーナリスト希望の人も結構いました。私は、昔から書くことが好きだったこともあり、この大学院で学ぶうちに、次第にジャーナリストになりたい、と考えるようになりました。

当時、アメリカでは、ジャーナリストはプロフェッショナルな職業として捉えられていました。今とはだいぶ事情が異なると思いますが、ジャーナリストのキャリアは、だいたいAPやUPIといった通信社から始まることが多かったようです。通信社というのは、新聞やテレビなどの報道機関へ記事を配信する、いわばニュースの「卸売り」のようなところです。記者の数が多く、あらゆる分野の取材をして数多くのストレートニュースをこなし、その中で自分の得意とする専門領域を築いてキャリアアップを図るわけです。通信社の次はだいたい新聞社への転職を目指す人が多く、最終的にはタイムやニューズウィーク、フォーブスといった雑誌媒体で、じっくり時間をかけて掘り下げた特集記事を書けるようになる、というのが当時のアメリカにおけるジャーナリストの理想的なキャリアパスと考えられていました。

コロンビア大学卒業後、私は日本に帰国してジャーナリストになることを目指しました。しかし、帰国して分かったのは、日本のジャーナリストのキャリアパスはアメリカとは全く違う、ということでした。日本の多くのジャーナリストは一般のサラリーマンと同様、新卒で新聞社やテレビ局などに就職したら、その後ずっと同じ会社でキャリアを築くわけです。中途で採用される余地などほとんどなく、記者も新卒採用が当たり前の時代だったのです。そんなことは帰国する前にわかりそうなものですが、やはり若気の至りで勝手に「何とかなる」と思っていました。そんな中、本当に幸運なことに、ジャパンタイムズで英文記者として採用してもらえることになりました。当時は日本語で取材して英語ですぐに記事を書ける人がまだ希少だったことが幸いしたのだと思います。

ジャパンタイムズ入社後、すぐに経済・金融の取材を担当するようになりました。1980年代初期の日本はまだバブルの前で、世界的にも日本市場はあまり注目されておらず、ジャパンタイムズにおける取材の花形といえば、政治・外交・社会でした。経済・金融はマイナーだったと思いますし、専門記者もいませんでした。そこで、この分野の担当を希望しました。ジャパンタイムズは日本の英字新聞社として歴史があり、主要な記者クラブにもメンバーシップがあったおかげで、大蔵省(当時)や日銀、銀行業界など、経済・金融の分野で色々な取材を経験することができました。

そうこうしているうちに1985年9月、歴史的なプラザ合意が勃発しました。これをきっかけに円が国際化し、円のパワーが世界を席巻、バブル経済へと繋がっていきます。そして、日本市場が世界から注目されるようになりました。大蔵大臣や日銀総裁の発言で世界中の為替や株が動くという、それまで考えられなかったようなことが起きるようになりました。グローバルな市場経済の時代に突入したのです。その結果、日本の経済・金融情報に対するニーズが一気に高まり、ロイターやダウジョーンズといった国際通信社の役割が重要になってきました。日本ではあまり注目されなかったニュースでも、たとえばロイターが英語で報じると、香港やシンガポールなど海外の市場が反応し、日本市場も影響が及ぶといったようなことも起きるようになりました。実際、ロイターの記事のインパクトは凄まじいものがあり、現場で取材している私も次第にそれを実感するようになりました。

日本市場への注目が高まるにつれ、この分野を取材できる英文記者の需要が高まってきました。ロイターの東京支局でも経済・金融を専門とする記者を早急に増やす必要が出てきたことから、幸いにも私にも声がかかり、1987年にロイターに転職しました。ジャパンタイムズで記事を書いているときとは、インパクトが違いました。たとえば、大蔵大臣の会見の内容が速報でロイターモニターに流れると、それだけで円相場が1円くらい動くことがよくありました。それぐらいマーケットに影響力のある仕事でしたので、発言のニュアンスを少しでも間違えると関係者からクレームが入ることもあり、プレッシャーを感じる日々でした。

ロイターには13年間在籍しました。その間、東京のほかニューヨークで3年半、ロンドンで3年半仕事する機会に恵まれました。日本には2000年1月に帰国しましたが、7年ぶりの東京は支局長が変わったせいか、まるで以前とは違う職場となっていました。外資系の会社ではよくあることです。私にとってあまり心地よい職場でなくなったので、この年の8月、ご縁があって共同通信に転職しました。このころから、いずれ大学で教えたいと考えるようになりました。報道の仕事はスピードが求められます。自分の意思とは関係なくニュースが発生すればすぐに反応する、いわば時間に振り回される仕事ともいえます。ジャーナリストになって20年以上の時が経ち、もう少し自分で自分の時間をマネージできるような仕事をしたいと次第に思うようになったのです。

私はロイター在籍中に本を2冊出版していました。そこで、その業績を基に、共同通信で仕事をしながら、大学への転職活動を始めました。知人の紹介により、明治大学の非常勤講師を務める機会を得たことをきっかけに、その後、東洋大学の教員公募に受かり、2004年に東洋大学経営学部の専任教員になりました。東洋大学で13年、社会情報大学院大学で4年教員を務めた後、教育現場から離れましたが、現在は東洋大学現代社会総合研究所の客員研究員として研究活動を続けています。

Q M&Aに関心をもったきっかけは何ですか?

きっかけは2つあります。1つは、ジャーナリスト時代に、大手都市銀行を取材していたときのことです。その銀行は合併して何年も経つのに、融合が進んでいませんでした。銀行母体の違いで人事部が2つあったほどです。取材していても、何かあると「あの人は元A銀行だから」とか、「あの人は元B銀行だから違う」とか、そういった会話がなされており、まったく融合されていないと感じました。双方のコミュニケーションが欠如しており、何も手立てがされていない状況でした。M&Aにおけるコミュニケーションの重要性を実感しました。

もう1つが、教員時代の2006年に、王子製紙が北越製紙に敵対的TOBを仕掛けたときのことです。王子製紙はTOBの成功に絶対的な自信を持っていましたが、結果は惨敗でした。TOBに際して、王子製紙は株主しか念頭に置かず、従業員や取引先など、その他関係する重要なステークホルダーの理解と支持を得ようとする努力を怠りました。つまり、TOBを成功に導くためのコミュニケーション戦略を、王子製紙はまったく用意していなかったのです。一方、北越製紙はTOB防衛のための優れたコミュニケーション戦略を策定しました。コミュニケーション専門のコンサルタントを起用し、反王子の効果的なメッセージをステークホルダーに向けて伝えることに成功したのです。これを受けてTOBの反対運動が各方面から吹き出し、王子製紙は四面楚歌の状態に陥りました。そして、TOBは失敗に終わったのです。コミュニケーション戦略がこれほど求められる局面は無いのではないかと感じました。これは強烈な印象で残っており、M&Aコミュニケーションを専門の1つとするきっかけとなりました。

Q M&Aと企業文化について、アカデミックではどこまで研究が進んでいますか?

この分野は世界的にみても先行研究は少ない方だと思います。実務をやられてきた人によるビジネス書はありますが、学術研究に関してはあまり多くはありません。特に、文化のデューデリジェンスの重要性を真正面から取り上げている文献は非常に少ないです。社風の違いが文化の摩擦を生み、企業価値を毀損するという論文や、企業文化の融合に関して苦労したというサーベイなどはありますが、「どう融合すべきか」という部分についての学術研究はほとんど見られません。

一方で、文化に関する研究はたくさんあります。異文化コミュニケーションだったり、比較文化論だったり。異文化というと自国と外国との話と感じる人も多いですが、そもそも、文化とは、ある集団の中で、時間を経て共有されてきた経験や価値観、習慣です。それを「見えない文化」と言います。そして、食べ物や服装などは「見える文化」です。「見えない文化」から「見える文化」が生まれてくるのです。私は、それが企業文化にも当てはまるのではないかと考えて研究をしています。文化をどのように理解し、分析し、マネージすればよいのか。そういった“文化に対する研究手法”をM&Aにも活用することが出来ると考えています。デューデリジェンス段階で、見える文化から、見えない文化を推し量ることも出来るでしょう。文化は分析できるのです。

Q そもそも、企業文化は融合すべきなのでしょうか?

M&Aの形態や対象企業との関係性によっても違うと思います。融合という1つのやり方を全てのM&Aに当てはめるのは無理があります。まずは、双方の文化に関して、相違点と類似点を分析してみるのが大事です。必ず、似ているところがあるはずです。その中で、共通軸を見出すと良いでしょう。特に理念やビジョンといった、大事にしている考え方の部分で通ずるところを探すのです。違いは矯正する必要はありません。違いは多様性に繋がります。共通軸を認識し合って、大事にしていることは、こういう風に考えてみると同じことですよね、と議論するのが重要です。それが、両社で腹落ちするのであれば、それをトップが明確なメッセージで伝えるべきです。M&Aとは、異文化対応であり、異文化コミュニケーションなのです。

Q 井上さんにとって、M&Aの成功とは何でしょうか?

わかりやすいのは時価総額や財務的な話だと思います。もちろん、それも大事ですが、私は文化の融合という観点で研究をしていますので、関係者全員がハッピーになることが成功だと考えます。そして、その重要な要素の1つに文化があると考えます。M&Aは組織と組織が一緒になるわけで、最も影響を受けて、最も負荷が掛かるのは従業員です。従業員たちの気持ちの一体感なくしては、成功とは言えないでしょう。不安もあるでしょうし、自分の仕事もどうなるか分からない。買収されたから、リストラの対象になるのかな、どこに会社は向かうのだろうか。そういったものに、しっかり答えてあげることが大事だと思います。

それにも関わらず、M&Aにおけるコミュニケーションの重要性を感じている経営者は少ないのが実情です。コミュニケーションはマネジメントの仕事です。トップマネジメントはそれを理解する必要があります。いくら「仕組みをつくった!」と言っても、トップマネジメントのコミットがないとワークするわけがありません。買収した経営者の視点だけではダメなのです。それは発信者の視点であって、受信者の視点からスタートするべきです。コミュニケーションの構成要素として、「メッセージ」、「送り手」、「受け手」、「コンテキスト」がありますが、コミュニケーションが成立するための最大のキーは、「受け手」です。いくらがんばってメッセージを用意しても、受け手が聞いていないと意味がありません。コミュニケーションが成立するのは、受け手が意味づけをしたときなのです。言った“つもり”、伝えた“つもり”ではダメなのです。伝わらなかったら、どこで間違えたのか、言い方なのか、内容なのか、コンテキストなのか、反省する必要があります。また、言葉を発してなくても、受け手は意味づけしてしまうこともあります。相手の態度や立ち振舞だけでも、立派なメッセージになります。それらを非言語のメッセージといいます。つまり、送り手が意図しようとしまいと、受け手が意味づけしたら、コミュニケーションは成立してしまうのです。したがって、受け手が何を聞きたいのか、受け手を起点にメッセージを構築すべきなのです。

取材・写真 MAVIS PARTNERS株式会社


【著書】

  • 『広報・コミュニケーション基礎』(共著)宣伝会議、2016年
  • 『体系パブリック・リレーションズ』(共訳)ピアソン・エデュケーション、2008年
  • 『英和国際金融経済辞典 改訂新版』(単著)研究社、2005年
  • 『英語で読む最新世界経済入門』(単著)朝日新聞社、2002年

 

【論文】

  • 「コーポレートブランディング実践に向けたフレームワーク――コーポレート・アイデンティティ、ブランド、レピュテーションの概念整理を中心に」(共著)『広報研究』第25号(日本広報学会)、2021年
  • 「リスクマネジメントと危機管理――コミュニケーションの視点から」(単著)『経営論集』第86号(東洋大学)、2015年
  • 「コーポレート・アイデンティティ再考」(単著)『経営論集』第80号(東洋大学)、2012年
  • 「M&Aにおける企業文化の融合とコミュニケーションの役割」(単著)『現代社会研究』第7号(東洋大学現代社会総合研究所)、2010年
  • 「敵対的買収時の危機管理コミュニケーション――買収側企業の視点から」(単著)『広報研究』第11号(日本広報学会)、2007年
  • 「レピュテーション・マネジメントにおけるコーポレート・コミュニケーションの役割」(単著)『経営論集』第66号(東洋大学)、2005年
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