M&Aインタビュー #4 DANTOTZ consulting 川勝さま

2020-05-08

当社団では、研究会開催に加えて、メインの活動として、M&Aプロフェッショナル インタビューを行います。各界のM&Aプロフェッショナルにご協力いただき、M&Aに対する想いや、大事にしていることをお話していただきます。読者にとって、M&Aに関するご自身の考えや哲学を振り返るきっかけになれば幸いです。


第4回目は、2020年4月に、株式会社DANTOTZ consultingの川勝さまにインタビューさせて頂きました。

株式会社DANTOTZ consulting

川勝宣昭さま

1942年三重県生まれ。1967年早稲田大学商学部卒業、日産自動車に入社。広報室、企画室、電子技術本部、中近東アフリカ事業本部部長、南アフリカ・ヨハネスブルグ事務所長などを歴任。1998年に急成長企業の日本電産にスカウト移籍。同社取締役経営企画部長(M&A担当)を経て、カリスマ経営者・永守重信氏の直接指導の下、日本電産芝浦専務、日本電産ネミコン社長を歴任。永守流「すぐやる、必ずやる、出来るまでやる」のスピード・執念経営の実践導入で破綻寸前企業の1年以内の急速浮上(売上倍増)と黒字化をすべて達成。2008年に経営コンサルタントとして独立。現在、中小企業から一部上場までのクライアント企業に対し、「速攻型市場攻略」の経営法を指導。URL:DANTOTZ.com
著書:「日本電産流V字回復経営の教科書」(東洋経済新報社)、「日本電産永守重信社長からのファクス42枚」(プレジデント社)、「日産自動車極秘ファイル2300枚」(プレジデント社)


Q. 日産時代も含め、これまでどのようなお仕事をされていて、どのような経緯で日本電産に移られたのでしょうか?

日産に入社してから約7年間、工場の生産管理に携わっていました。その後、本社の生産管理部門を経て、広報室に異動しました。当時「牛込柳町鉛中毒事件」で社会問題化していた自動車の排ガス問題を契機に、日産でも広報部門に力を入れていこうとしていました。各部署から人を集めていて、生産部門からは私が赴き、主にマスコミ対応を行いました。

次に配属されたのは、官公庁との渉外を担当する部署で、初代渉外課長でした。通産省(現在の経産省)、外務省などの官庁や自民党を回り、日産の事業に影響を及ぼす様々な情報の収集を行いました。

その後、全社の中期計画や戦略の策定を行う企画室を経て、事業開発室の部長になりました。当時は新日鐵(現在の日本製鉄)が半導体事業参入等で事業の多角化に動いていたように、日産も新たな事業の開発に力を入れ始めており、私もいくつかの会社を作りました

さらにその後は、開発部門に異動し、「電子技術戦略」の一環として、ドイツの自動車部品メーカーであるロバート・ボッシュをパートナーとした国内企業との3社合弁会社の設立など、いくつかの電子技術関係の会社を立ち上げました

私は元々は事務屋なので、そろそろ事務部門に戻してもらいたいと申し出たところ、中近東アフリカ事業部に転出になり、同地域での事業(製造および販売)を数年担当しました。どうしても現地経営をやりたかったものですから、南アフリカの現地法人の日本人代表として家族共々生活の基盤を現地に移し、数年間現地で経営指導を行いました。

そこで役職定年を迎え(当時は55歳が役職定年)、第二の人生として、「日産の”に”の字もないような場所で仕事がしたい」と考えていたところに、当時急成長を遂げていた日本電産からスカウトの声がかかりました。永守社長(現在の同社会長)と面接を受けて、「即採用」となったため、すぐに日産を退職し、ヨハネスブルグから日本電産のある京都に引っ越すこととなりました。

 

Q M&Aとの関りは、日産在籍時代からあったということでしょうか?

そうですね。例えば先ほどお話した、ボッシュをパートナーとした合弁会社設立のための、相手企業との交渉に始まって、合弁契約や新会社設立プロセスの策定など、会社作りにかかわる仕事はしていました

他にも会社作りということでは、日立との合弁会社で、カーナビの会社を設立したり、GEとの合弁事業としてフリート・ビジネスの会社も作りました。

そういうことなので、会社を作るためのプロセスは一通り経験し、何をしなくてはいけないのかの基本マターはある程度理解していたと思います。

 

Q その後、日本電産ではどのようなお仕事をされましたか?

日本電産に入社して3ヶ月後にM&A担当役員に任命されました。初めての仕事は、東芝の名門子会社であった芝浦製作所が持つモーター事業買収に向けた交渉でした。当時東芝の社長を務めていた西室さんは、「集中と選択」戦略の一環としてローテク事業と位置付けていたモーター事業の切り離しを考えており、一方でモーター事業が欲しかった日本電産との間で利害が一致し、交渉が始まりました。
半年程度で交渉がまとまり、日本電産芝浦が誕生しました。直後、交渉担当者だった私は、永守さんからこう言われました。

「M&A成功の鍵は、『どう買うか』よりも『どう育てるか』だ。買う役目だった君は、今度は育てる役にまわれ」
それでその新会社に経営者として赴いたわけです。

日本電産のM&A新会社再建(新会社立ち上げ)の原則は、どんな場合でも、1年以内の期間損益黒字化ですので、かなりハードルの高いものです。1年で再建ができると、また次の新会社に赴く。だから、私の日本電産におけるキャリアは、「再建屋」としてのキャリアといってもいいと思います。

 

Q 日産に在籍されていた時も、今の芝浦製作所の事例のように「仕掛けるM&A」は行いましたか?

会社の戦略に沿って、他社に仕掛けていくということは当然ありました

当時の自動車は、今ほど電子化は進んでいませんでした。せいぜいエンジンなどの主要な機構部分を電子制御している程度のもので、自動車全体を電子的に制御するようなことはありませんでした。しかし、今後自動車業界全体で電子技術がキーテクノロジーとなることが予想されたため、日産も「電子技術戦略」の推進に乗り出しました。しかしながら、電子技術を外部の力に頼りっぱなしでは、安全保障上の問題が生じる恐れがあったため、技術を内製化する手段としてM&Aを使うこととなったのです。

最初に目を付けたのは、先ほどお話した、当時世界最先端の地図情報ノウハウを有していた日立グループの技術を使ったカーナビ会社の設立でした。日立の持つ巡航ミサイルに搭載されるほどの地図情報技術を獲得することで、日産の電子技術開発に役立てようという狙いでした。

次に目を付けたのが、電子技術に関しては世界でもトップレベルのノウハウを有している、ドイツのロバート・ボッシュでした。そこで、先ほどお話しした通り、ボッシュをパートナーとした合弁会社設立のための交渉などを行ったのです。

 

Q特に印象に残っているM&Aの事例は何でしょうか?

特に印象に残っているといえば、日産で失敗した経験と、日本電産入社後に経験したM&Aですね。

1つ目の失敗事例に関してですが、当時アメリカでは自動車のフリートサービス(自動車購入後のアフターサービスの一種)に対する需要が大きく、その仕組みや整備も非常に進んでいました。そこで、私は、アメリカですでにフリートサービス網を持っており、ノウハウを有しているGEの子会社に目を付け、交渉を始めました。すると、向こう側も非常に乗り気で、日産とGE子会社とで合弁会社を設立することができました。

しかし、ふたを開けてみると、日本にはアメリカほどフリートサービスに対する需要が多くなく、結局設立した合弁会社は解散に追い込まれてしまいました。

そこでの教訓として学んだことは、「企画・コンセプトだけで会社は作ってはいけない。コンセプトが事業に本当に生きるのか?、コンセプトが花開くだけのニーズ・ウォンツが既に存在するのか?もし、そういうニーズ・ウォンツがなかったら、会社は作るな」でした。つまり、数歩先の事業ではなく、半歩先の事業を考えろ、です。
ウォンツは潜在的なものも多く、詳細かつ正確に分解することは困難な点も多いですが、少なくともニーズに対応するようなビジネスでないと、上手くはいかないということです。そうでない事業(ニーズやウォンツの創出が必要な事業)は、インキュベーション期間が長すぎて、会社の資源を圧迫するだけですから。

日本電産に入社した後に経験したM&Aに関しては、交渉段階だけでなく、「1年以内に育てる」仕事を七転八倒の苦労をして、数社の再建を通じて経験しましたから、当然印象には残っています。

 

Q 投資銀行や監査法人など外部にDDの部分を任せることはなかったのですか?

もちろんDDの部分ではどうしても必要になるので、M&A専門の会社に委託する部分もありました。特に企業価値に関しては、交渉相手への説得力を持たせるために第三者の視点から算出を依頼していました。

ただし、会社のコンセプト作りや買収後の人事施策など、自分たちが考えなくてはいけない部分が多いので、かなりの部分はこちら側でやっていました

 

Q そういったM&Aのプロセスは日本電産内で確立されてたのでしょうか?

その当時はまだ確立されていなかったですね。今はM&A専門の部署も設置され、体制も確立されてきていますが、私がいたころは、まだ専門の部署もなかったので。M&A担当も私一人で、直属の上司が永守さんという体制でした。

当時の試行錯誤の結果が、現在の日本電産における確立されたM&Aプロセスに生かされているのでないかと思います。

 

Q 当時は永守社長に逐一報告をしていたのでしょうか?それとも、ある程度川勝さんに一任されて、進めていたのでしょうか?

かなりの部分は任されていましたが、任せるにあたって取るべき基本的な承認プロセスは踏んでいました。したがって、節目節目は当然、永守さんに報告するわけです。

M&Aの相手先は、私のことを日本電産の代表者としてみていますから、もちろん永守社長に確認すべきことは逐一確認して進めていました。

 

Q M&Aは、会社の活動の中でも特に極秘で進めていく必要があるという性質上、日本電産でも、主に永守社長と川勝さんで進めていったかと思うのですが、検討を進めていく中でブレーキ機能の必要性について、どうお考えでしょうか?

何のためにM&Aを行うのかという目的によると思います。

日本電産は「技術を得るための時間を買う」という思想に則ってM&Aを行っていましたので、「M&Aで利益を出したい」という思想でM&Aを行っている会社の場合とは、求められるブレーキ機能や買収是非の基準は異なってくるのかと思います。

日本電産はご存じの通りモーター事業を行っています。モーターは、用途や大小によって技術体系が大きく異なるので、日本電産にノウハウのないモーターの技術を自社開発しようとすると時間がかかります。そこで、他社を買収して時間を稼ぐということがM&Aの大きな目的でした。

従って、日本電産のM&Aの原則として設けられていた基準は、「技術があるのかどうか?」でした。

当時は今と違い、M&A市場に出されている会社の大半は赤字企業でしたが、日本電産としては、「技術があるかどうか」が判断の軸ですから、技術さえあれば赤字企業でも問題ありません

さらに言いますと、優れた技術を持っているにも関わらず赤字になってしまっている原因は、会社のマネジメントにあると考えています。だから、仮に赤字であっても、それは日本電産のマネジメント力で改善すれば問題ないというわけです。

 

Q とらえ方によっては、赤字企業を狙って買っているというようにも見えますが、実際のところはいかがだったのでしょうか?

そういうわけではありません。確かに極論を言えば、技術を持ってさえいれば、赤字であればあるほど、お得に買えてよいということになりますが、買収の大前提は「技術があるか否か、欲を言えばその技術が優れているかどうか」です。

例えば、先ほどお話しした芝浦製作所は、当時エアコン用のモーターに関して独自の技術を持っていて、保有している技術的には申し分ありませんでした。しかし、顧客は親会社の東芝以外にほとんどなく、売上高は、エアコン用モーターを製造する企業の中では8社中7番目という状況で、10年分の累損が溜まっているような万年赤字企業でした。

そうすると、「この会社は買い」ということになるのです。技術は一流なのだから、あとは買収後に日本電産から私のような担当者を送り込んで、マネジメントの立て直しを行えばよいということです。

 

Q その会社に技術があるかないかは、日本電産の技術部隊が判断していたのですか?

モーターの世界に関しては、技術の有無の判断はそこまで難しくありませんので、私自身でも可能ですが、基本的には業界の情報に最も精通している永守さんが最終的な判断を下していました。

それから、モーターの世界に関しては、日本電産の人間であれば、ある程度「この種類のモーターであれば、この会社の技術が良い」という認識は共有されていました。あらかじめそういった技術力のある会社に目を付けておき、あとは、この会社のキーマンはこの人で、その人とのパイプを持っているのはXX証券会社のXXさんといった具合な接触ルートを把握できれば、その会社にアプローチをするといったようなプロセスで交渉まで進めていました(初めから日本電産が直接相手先とコンタクトをとることはできないので)。

 

Q 実際に買収候補先と交渉を進めていくうえで培われた、いわゆる交渉術のようなものは、日本電産社内で受け継がれていましたか?

私の場合は、日産にいたときの交渉の仕方がベースになっています。

代表的なもので言うと、ボッシュとの合弁会社設立時、事前にボッシュとの交渉の「交渉可能領域」と「不能領域」を決めておき(各領域には、当然幅があります)、それについてはトップの了承を得ておき、その幅の範囲内では裁量権をもらって交渉に臨みます。そして交渉の実際局面では、交渉可能領域の中で、できるだけ自社に有利なポイントに相手を誘導するわけです。これはまさに交渉術に当たるものかと思います。

こういった交渉術に関しては、体系化された何かがあるというわけではなく、M&A担当者の力量によるところが大きいと考えています。M&Aを巧みにこなしている会社であれば、どんな会社にもM&A交渉のプロがいて、交渉術はその人独自のノウハウとして存在しているはずです。

そういう意味では、日産在籍時から、様々な合弁会社の設立に関わっていましたから、そこで得たノウハウを自分の中では体系化して、日本電産での仕事にも活かせていたのではないかと思います。

 

Q ここまで、M&Aを行う際の基準や交渉術など、M&Aを成功に導くために必要な要素をいくつか挙げていただきましたが、それ以外に重要なポイントがあれば教えてください

非常に大事なのは、買収先企業の経営者のリーダーシップだと思います。

日本電産の場合には、買収後に、自社から担当者を1人だけ派遣して、経営の立て直しを図ります。これが、多くの人間を買収先に送り込んで、再建をやる一般のやり方と異なります。そのときに、外部から来た人間が1人で買収先企業の従業員を動かしていくことは難しいので、経営者が求心力を発揮して、社内を1つにまとめていくことが必要になるわけです。

したがって、言い方はあまり良くありませんが、仮に経営者が愚鈍で、求心力を発揮できないとなると、まずは社内をまとめることから必要になってしまい、立て直しまでに時間がかかってしまうのです。

 

Q なぜ日本電産は1人しか買収先に派遣しないのでしょうか?

永守さんの自信の表れだと思います。

永守さんはよく「自分と経営感性を同期化しろ」とおっしゃいます。「スピード感性を自分と合わせろ」「判断の感性を自分と合わせろ」などといったように、とにかく永守さんの代役として、買収先企業の立て直しを行うことを求められました。なので、私は買収先に派遣される役目のことを「代官」と呼んでいました。経営感性を同期化できない人間は、買収先には派遣しません。

それ以外にも、2つ条件があります。

1つは、リーダーは「逃げない」ということです。M&Aは結婚とよく似ていますが、結婚の場合、互いに愛情をもって1つになりますが、M&Aの場合には、打算はあっても愛情はありません。そのため、2つの会社が統合して、シナジーの創出を実現することは非常に難しいことであるため、困難から逃げない人間でなくてはいけません

もう1つは、実際に買収先企業に出向し、リーダーへの求心力を向上させられるかどうかです。

再建リーダーへの社員の求心力が上がれば、その会社は一体のチームになれる。チームになれば、再建が加速される、ということです。

以上3つの条件を満たす人間であれば、そんなに何人も派遣してもしょうがなく、一人で十分だという考えなのです。

 

Q 日本電産のPMIのすごさに関しては、今や様々な書籍やレポートでも盛んに取り上げられています。そういったものを読む限り、感性だけでなく数字でも子会社を緻密に管理しているように思ったのですが、実際のところ、子会社を管理する上でのマニュアルのようなものは存在するのでしょうか?

永守さんは、派遣する社員のリーダーとしての資質によってM&A成否の9割が決まると考えていますから、派遣する人間の感性は重要視しています。

しかしその人間にやり方を任せるのではなく、その人間がどうやって買収先子会社を管理するのかといった手法に関しては、体系化されたメソッドがしっかりと決まっています。当然、精神論だけで子会社を管理してM&Aを成功させることはできませんから。

例えば、子会社に出向する前に、担当者はA3の1枚紙を渡されます。その紙には、赤字経営から脱出するためにすべきことが、20項目ぐらい定量的に洗い出されていて(例えば「固定費と変動費の割合をどの水準に持っていくのか」や、「売上に対する材料費の目標比率は50%以下」とか「経費比率は5%以内に抑える」など)、派遣される代官はこれを守りながら、子会社を管理していくことになります。逆に、この紙に書いてあることさえ守っていれば、箸の上げ下ろしまで永守さんに指示されるということはありません

 

Q 派遣する社員の選び方や、子会社を管理する上でのマニュアルというのは、やはり永守さんのこれまでの経験から裏付けられた、M&A成功の方程式ということなのでしょうか?

そうだと思います。永守さんご自身が、63社もM&Aを成功に導いてきていますので、成功の方程式というのは持っていると思います。そういった経験が結実した結果が、先ほどお話ししたA3の1枚紙のようなものなのだと思います。

 

Q ここまでのお話を聞いていると、やはり日本電産のM&Aに対するノウハウや姿勢は流石と感じましたが、これまで日産や日本電産で様々なM&Aに最前線でかかわってきた川勝さんだからこそわかる、M&Aで大事にすべきことは何だとお考えでしょうか?

M&Aというと、とかく計数でものを見がちになってしまいますが、人の側面を大事にしないと、シナジーは生まれないと思っています。早くシナジーを出そうと思ったら、いかに買収先企業の人たちをやる気にさせるのかが、非常に重要なポイントになってきます。

やる気を出してもらう、ということを別の言い方をすれば、私が出す厳しい再建方針を前向きに受け止めてくれて、私と一体となって困難な目標に挑戦し、少しずつですが、成功体験を重ねてくれるかどうかです。つまり、前述した私への求心力が社員の間に湧き起こり、経営者・社員一体の、今の流行り言葉でいえば、「ワンチーム」の体制ができあがるかどうかがM&A成功の鍵になります。

では、どうしたら私(経営者)への求心力が沸き起こるのか、です。

私が実際に子会社に出向して、立て直しをした時の経験談でお話ししましょう。日本電産での私自身の再建第一号の日本電産芝浦での話です。当時、売上高は年間180億円。営業利益は▲36億円(営業利益率▲20%)。会社の門をくぐるたびに、「あゝ、今日も1千万円のおカネが、この空のどこかに飛んでいくのか」と嘆いたものです。赤字の止血を大至急やらねばなりません。コスト構造(売上高比)を調べると、一番大きいのは、材料費の70%。次いで統制経費(減価償却費、リース料などの削減不可能の経費を除いたもの)の20%でした。

まず、この材料費や統制経費の削減に私自身が注力しました。自分がひたすらに働くことで、それを知った買収先子会社の人たちの自分を見る目は一晩で変わります。この人は信頼できる人だと。そうすることで、次の日から、その人たちは自分と一緒になって、立て直しに向けて動いてくれるのです。

私が大事にしているのは、部下が戦っている塹壕に飛び込む経営者でなくてはいけないということです。塹壕に飛び込まずに、部下のことを批判してばかりいるような経営者では、会社は絶対にうまくいきません。

それを最も学んだのが、日産時代に南アフリカに駐在した時です。当時、現地の人間からすると、日本の自動車技術というのは、のどから手が出るほど欲しいものだったのですが、そこで現地の経営者から、このように言われました。「川勝さん、あなたは我々とin the same boat でやっていくために来たのか?それとも、我々の欠点を報告するために来たのか?」。彼らは、私が自動車先進国の人間として、自分たちを批判するために来たのか、それとも苦楽を共にして一緒に働いてくれるのかを知りたかったのです。

そこで私は「in the same boat だ」と答えました。すると翌日から、現地企業にとって都合の悪い情報も含めて、様々な情報をこちらに共有してくれました。

結局、相手の信頼を得られなければ、自分たちに都合の悪い情報は隠されてしまい、結果的に子会社管理はうまくいかなくなってしまうのです。

他人とビジネスをやっていくうえでは、一緒になって進めていくという精神が不可欠で、M&Aに関しては特にそうだと思っています。シナジーが出せるはずなのに、結果として出せていないのは、人の気持ちをしっかりと考えていないことが原因であることが多いと思います。

取材・写真 MAVIS PARTNERS株式会社

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